昭和42年9月26日 朝の御理解     


 二代金光様、四神様の教えて下さる御理解の中に、氏子が神の用を足せば、氏子の用は神が足してやる、と。神の用を足せば、私どもが神様のご用をさせて頂いたら、神様が私どものご用はして下さる、と。それと、鮮やかですね、そういうおかげを頂きますと。一生懸命、神様のご用ばしよりゃ、もう、神様が取り上げもして下さる、田植えもして下さる。集金にも行って下さる、店番もして下さる。
 神の用を足せば、そういうような、まあ、例えば、その、おかげを頂きたい、と。私は、それは、その、頂けんことはないと思うですね。
 氏子が神の用をしておれば、神が氏子の用は、神が足してやると、こう言う。ね。神様がしござるとじゃから、抜け目がない。いわゆる、天衣無縫である。ね。率がない。そこで私たちがですね、これを本当にその、神の用を足せばと仰る。本当に神の用を足すと言うことが、私は御用だと思うのです。ね。御用と書いて。
昨夜も11時半もございましたでしょうか。休もうかと思いよるところへ、福岡の富永さんが参って来た。えらい遅うから参って見えた。
 お話を頂いてみますと、先生、お伺いしてから返事すると言うとりますから、それこそ、お伺いに来ましたと、こう言うのである。皆さんもご承知のかたがほとんどだろうと思うですけれども、富永さん、最近はもう、最近と言うか、何ヶ月でしょうかね。奥さんと別居生活をしておられる。先日から、ちょうど、あの、参道の御用のあった日でしたが、朝から夫婦で来とった。奥さんを同道でお参りして見えておりました。
 というように、まあ、夫婦の仲も、まあ、いよいよ別れなさらんならんといったような、こんがらがった問題になっておりましたけれども、だんだん、おかげを頂いて行きよんなさるが。こう、陶器の下ろしをしておられます。陶器類ですね。で、というて見えられた、というのは、どういうようなことだったかと言うと、その、家内が、まだ、まだ、別々な生活をしておられるですけども。
 有田方面の窯元への顔が、富永さん、ご主人の方でしかないわけですね。ですから、もう、ちょうどシーズンになりましたから、その、窯元へ行ってから、この少し、仕入れの方をやってくれと、こういう頼みがあった訳なんです。それで、まあ、それは先生にお伺いをさせて頂いてから、先生がお許し頂きゃ、明日にでも、なら、有田の方に参ってやろうということになったんですね。
 けれども、それが、その、お伺いにみえたというのは、その、やはり、富永さんは富永さんとしての、一つの不安というか、心配があったわけなんですたい。これは、また、俺が起用されよる、と。俺を利用しようと思うとるというのが、その、即答が出けなかったとこだったらしいんですね。
 先日から、あの、奥さんのところから、まあ、生活費の一部と、それから、小遣いやら車のガソリン代やらは、まあ、自分が出してやろうと、奥さんの方から申し出があった。月に何万かあげるという訳です。秋永先生にそのことを尋ねることが、そりゃあ、奥さんがやるち言いなさんなら、有り難うもろうときなさいち。ところが、自分にはどうも合点の行かないものがある。
 周囲の者に相談したところが、そりゃあアンタ、もう、きかんんごとアンタんげん女房が、何かその、思惑があるとばい。もう、そげなんモンどんもらいよるなら、大事でくると言うてみんなが言うた。そげなんモンどんもらいなさんな、と。ほれで、秋永先生だけが、そんなことがあるもんか。ね。
 まあ、どういう真意があって、どういう、その根底ということは分からんけれどもです、家内がお金ばやろうと言うなら、ああ、有り難うと言うてもろうたがええ。もう、それこそ、たんたんとして。ね。神様が家内からもらうのじゃない、神様から頂くんだというような気持ちでもらうがいい。なぜって、貴方自身が、言うなら食べることにでも困っておるじゃないか。他所でん、不義理までしよるじゃないか、と。ね。
 そういう中に、いわば、神様が貴方に恵んで下さるのじゃけん、相手が家内であろうが、子供であろうが、それは、有り難く頂くべきだというのが、秋永先生の主張だったらしいです。親先生がどげん言いなさるかお伺いしてみれ、と。と言うて、お伺いに、そん時、もう見えましたから、私は申しました。それも即答致しました。ご神意を伺わんでも分かるですよね。
 秋永先生が言われるように、秋永先生が言われるように、神様が下さるものとして、有り難く頂けと、こう言うのである。私もその通りに申しました。ほらね、私が言うとと同じこっじゃろうがと言うた、秋永先生が横から申します。そういうところにですね、もう、本当にあの、こだわってはならない。
 たとえ、それは、そのことで、また、自分を境地に落とし入れようとか。または、利用しようと思うとるとか、色々、その、まあ、疑心暗鬼と申しますね、相手を疑うたり、ね、人間的に考えますとです、もう、本当に前には進まれないようなことがございますけれども、そこんところを、神様がという気持ちにならせて頂いたら、もう一つも、何も引っかからない。ね。
 例えば、必要にもない、自分はまだお金に不自由もしてないのに、人がやると言うなら、それは、まあ、人間ですから遠慮もせんなりません。ね。けれども、本当に自分が今、言うなら喉から手が出るように欲しい時に、誰彼が使うときなさいとか、あげましょうとかと言うのは、本当に神様が下さるものとして、有り難く頂くべきである。これは、こげなお金どん使いよるなら、これは、もう、碌なことはなかろうというように、私は思うことも何もいらんと、こう思うのです。
 それと同じように、夕べもわざわざ、そういう夜中にお伺いに見えたというのは、家内がこういうことを言いよる。ここで、また、その、俺を利用しようとか。ね。用のある時だけ自分を使おうと思うておる。そういう根性が見えすいておる。そんな感じが、まあ、されたらしいんですね。それで、私が思いました。
 それは富永さん、その、さっそく明日にでも行って、交渉をしてやって、その、奥さんの方で商売が出来なさるように、有田の方へ行って交渉をしてやりなさるがいいですよ。それも、あなたがしてやりなさるとじゃない、一つ、御用と思われたら良いですよ、と。ね。
 神様の御用をさせて頂くと思えばいいんですよ。貴方がしてやると、御用が私用になる。2、3、4、の例えば、数字で言うなら、5が私用になるではおかげにならん、と。御用が、御用(おんよう)というのが、私の用、私用と。私用になってはおかげにならん、と。
 ところが、私用であると思うておった事柄でもです、それを御用と思わせて頂きゃ、おかげになる。今までは、富永の仕事場と、こう思うておったをはです、ね、もう、自分だけしか出けないことだから、あれが俺に頼みに来た。そして、俺を利用しようと思うておるということになる。たとえ、実は、もう利用されよっても良いのです。ね。もう、俺を利用しよるということが、見え透いておっても良いのです、こちらが、それを御用として頂いたら、御用になるのですよ。ね。
 自分だけしか出けないことということが分かっとるんだから、俺にそういう、俺を利用しようと思いよる、俺を使おうと思うておると思うたら、私用なんだ。けれども、それをです、例えばその、相手は利用しようと思うておっても、ね、こちらの受け方が神様の御用としてさせて頂きゃ、どういうことになりますでしょうかね、私が一番初めに申しました。ね。
 神の用を足せばと仰る。神の用を足せば、氏子の用は神が足してやると仰るようなです、素晴らしい働きになって来るとですよ。ね。んなら、例えば、昨日一昨日ですね。ここ参道の御用がございました。もう、本当に朝から、もう日の暮れるまで終日でございました。ほとんど、壮年部の方達ばかりで、二十名あまりの方達が、きれいに駐車場と参道をなさいました。
 そん時、ある教会の御信者さん方が、4人連れで参って来て、月に一回ずつぐらい参って来るんですね。先生、もう、ここはいつ来たっちゃ、あげな御用があるが、本当にここの御信者さんは感心しますと、こういう訳なんです。いつものこと、毎日第一、朝の参って来る時だけじゃないです。
 もう、毎日、もう、地区地区で、ちゃんと決まっとってから、もう、この広いところのお掃除の御用なんかは婦人部の方達で毎日御用がありよるとですよち。はあ、ち言ってたまがっておりました。ね。そういうことだけは御用と思うておる人がある。いや、御用と思うておるだけじゃいかん。
 ああ、今日も御用日じゃから、報酬じゃからいかんならんて、してあげますと、お手伝い、まるっきり、お手伝い、それこそ、というように、例えばそれで、一日の御用を、ここの御広前で御用を頂いておりましたもです、ね、御用のその内容というものがです、してあげようであっては、それは私用になるのです。
 ね、なるほど、直接お広前の御用をしよってもです、それは、してあげますでは、それは私用なんですから、神の用は氏子が足してやると仰るようなことになって来ないから、馬鹿らしい。ね。そこで、やはり、信心させて頂くと、いわゆる、真心を欲求されるのです。神様が真心一つでと、こう仰る。ね。
 御用ということはね、ここでする御用もです、家でする御用もです、同じ内容のもんでなからなきゃならない、と。ためには、自分のしておる、例えば、なら、商売なら商売も、自分がしとるとじゃない、神様の御用としてさせて頂くのである。ね。
 そこんところを、玉水の湯川先生は、ね、神様が御主人であり、主人は番頭ぞ、家内は女中さんぞという風に教えておられます。これだったら、間違いないですよね。例えば、なら、というのが堤商店というのが堤しめきちが主人じゃないというのである。ね。主人は親神様なんだ、と。もっと分かりやすく言うなら、主人は大坪親先生だということである。家の社長さんは、大坪先生、親先生が家の社長だ、と。自分達は、まあ、言うなら専務であったり、ね、その、部長であったりちゅうごたる風なことに、まあ、なる訳です。
 ところが、自分が社長でドンと納まっておる。これでは、御用にはならないです。自分の私用です。ね。神様がご主人、私が番頭、家内が女中さん。こういうようなですね、思い込みが出けてくるところから、私は本当の御用ということになって来るのじゃなかろうかと、こう思うんです。ね。
 私用が御用になると、おかげになるのです。それは、どういうことになるでしょうかね、そしたら。ね。私用が御用になると、ね。氏子の用は神が足してやると仰るように、たしかに、田も神様が植えて下さろう、刈るとも神様が刈って下さるだろう。ね。
 借金を持っとるなら、その支払いもして下さるだろう、集金にも行って下さるだろう。言うなら、ご飯も炊いて下さるだろう、お采も神様が作って下さるんだ、と。自分な御用さえしときゃいいという事になるのです。そげな馬鹿なというて出来るんですよ。もちろん、神様が手使うという訳にいきませんから、神が人を使うて、神が口を使うて、ね。神様が、いわば、自分の手に足になるものを使うて、田も植えて下さりゃ、刈っても下さるといったようなことになって来るのです。
 そこで、いわば、自分は神様の御用さえしときゃいい。ですから、自分達が頂いておる御用がですね、いわゆる、1、2、3、ひとつ少ない。よん、4、ね。1、2、3、4の私用になっておる。ね。または、御用ではなくてから、私の用になっておる。それでは、やはり、神様のいわば、本当の、今日もどうぞ御用にお使い回し下さいと、こう言う。ね。
 本当に神様が御用にお使い回し下さる時にはです、もう、本当に隅から隅までお使い回し下さるですね。もう、本当に驚くばかりです。昨日なんか、私、一日、まあ、本当にそういうような、もう御用に、今申しますように、もう最後は、もう、休まんならんという時まで御用に使うて下さる、朝からずっと。ね。
 なら、そういう中にはどういうことになってるかと言うと、ここの御用もありゃ、もう、私は昨日は、久留米の霊祭でしたから、久留米に十二時ちょっと過ぎに迎えに来てくれましたけれど、もう少し早く迎えに来んならんとに、迎えに来なかった。さあ、それから遠隔地、熊本、北九州辺りからもお参りして来ておった。もう、本当に私に会わなければ困るという人達が参って来てとを、もう、ギリギリまで御用に使うて下さる。霊祭にも使うて下さる。霊祭が済んで、ご直会を頂き終わってから、私ども、四人でお芝居にやらせて頂いて。帰って来たのは、もう、八時過ぎであった。で、それで夜の御祈念があった、奉仕させてもらう。終わったら終わったで、もう、寝るまで御用に使うて下さる。
 有り難いなあ、とこう思う。なら、例えば、そういう中に、御用の中にはですね、お芝居から見物するようなことまであることが、あることを皆さんが分からなきゃいけんのですよ。お芝居で言うならば、まあ、自分の楽しみのごと、いわゆる、楽しみでもあれば楽しみもあります、楽しませて下さってからの、御用に御使いまわしを下さってあるのですよ。
 だから、信心しよりゃ、芝居も見られんちゅうのじゃないことが分かるでしょうが。ね。神様が本当に、こちらが、ね、まあ、素直に御用にお使い回して頂きたいという気持ちになりゃです、神様が隅から隅まで御用にお使い回し下さる。ね。
 だから、商売繁盛のおかげを頂くために、どうぞ、御用をお使い下さいというだけでは、それは、本当の御用にならん。今日、私が申しますような御用の内容というものがです、ね。それは例えば、自分が利用されよると見え透いておりましてもです、こちらの内容が、ね、あの人から使われよるとじゃない、神様から使われよるんだと思うたら、御用になる。
 あの人から使われよると思うたら、もう、俺が出けることだけを、もう本当に、その、自分を利用しよる。誰が利用されるもんか、ということになったり、利用されながらです、本当に自分な馬鹿らしい、貧乏くじ引いたもんじゃと言うて、自分をその、心の中に苦しまんならん。
 けれども、神様に使うて頂いておるんだと思うたら、有り難い。ね。御用にお使い回しを頂いておるのである。そこには、思惑も何もない。ただ、御用に使い回しを頂いておるということが有り難いということになってです、なら、結果としては神様が、いわば、氏子のために、私どものために、氏子の用は神が足してやると仰るような、まあ、素晴らしいおかげになって来るのでございます。ね。
 そこで、んなら、その御用の内容というものが、どういう事にならなければならないかと言うとです、けっきょくは神心であり、真心であるということが分かります。ね。真心を持っての用。それが、そのまま、御用なのである。神心を持っての用、それが、御用なのであります。ね。親切、親が子を思う切なる心。親切を持っての用が、そのまま、御用なのです。
 そこんところにですね、富永さん間違うとりましたけれども、この前から、こうして奥さんからお金をやろうと、こう言われる。けれども、これは何か思惑があって、自分に金をやろうと思いよるとじゃから、もう、富永さん、そげな金どんもらいどんしなさんなと、みんなが、まあ、言うたと言うけれども。秋永先生が言うておられるように、それは神様が下さるもんな頂いとかにゃ、と。
 アンタがそれを頂っきらんならば、親先生にお伺いして、何を言わっしゃるか。私も同じこと、そりゃあ、頂かじゃこて。神様が下さるものとして頂かな。ね。そういうですね、そういう心で頂く。相手を疑うたり、いわゆる疑心暗鬼でもらうのじゃなくてです、神様が下さるものとして頂かせてもらうところからですね、何ヶ月間、夫婦の間に、もう、完全にもう別れなければならなかった富永さんたち夫婦の仲にですね、それをもらわれたことによってですね、いわば、次には、もう奥さんが富永さんに御用を頼まれるというような雰囲気が生まれて来たことは事実なのです。
 まあ、その中にいろいろな問題がございました。そこんところを、あまりにも、いわば、それは神様から頂くものとしてから、お母さん、頂くぞと言うてもらった訳なんです。もう、たんたんとして頂かれることになったら、んなら、富永さんに、そげな御用でもして下さいということになって来た。
 そういう時にどうでしょうか。ね。どげな思惑があるか分からんから、そげなん金だんもらわんぞということであったら、おそらく、疎遠になっとる。本当の意味で、いわば、夫婦が、ね、何十年連れ添うた嫁御と別れんなんごとなる。子供達は、まあ、大学に行っておる。もう、高校にも行っておる。
 そういう大きな子供達がある中に、例えば、親子、夫婦の仲にもです、親子の仲にも幸せの頂けれるはずがない、それでは。ですからですね、もう、ここもそこも、道が開ける開けない、信心のあるモンとないモンの違いを、もう、紙一重のところに感ずるじゃないですか。ね。
 信心させて頂いておるということは、そこが有り難い。ね。ですからです、私どもがですね、例えば、御用をさせて頂くでもです、ね。本当に素直な、真心の込もった心を持って、御用をさせてもらう。御用は必ずしもお広前のことだけが御用じゃない。自分でさせて頂いておる、その、家庭の中にあってもです、お商売の中にあってもです、様々な事業の中にあってもです、その内容というものが、今日、私が申しました内容を持っての、それが用になる時に、それが御用である。ね。
 その御用に一生懸命精進させて頂きゃ、場合によってはですね、借金をつくるような事があるかも知れませんけれども、もう、そこには自分の借金ではない、神様がご主人なのですから、神様が借金を負うて下さったのであるから、神様が払うて下さらんはずがない。
 自分には一つも、これに心配にならんのです、自分の借金じゃなかっちゃから。ところが、借金だけは神様にからわせてですたいね、ところが儲かるとこだけは自分のものにする。これなら、もう、絶対に御用じゃないから、それでは本当の進展、本当の発展になるはずがありません。ね。
 まあ、それを端的に四神様が仰っておられる言葉が、一番はじめに申しましたように。ね。氏子が神の用を足せば、氏子の用は神が足してやると仰るような働きになって来る。まあ、表現が悪いですけれども、ね、神様の御用さえさせて頂いておればです、神様が田も植えて下さりゃ、家も買って下さる。集金にも行って下さりゃ、借金も払うて下さるといったようなおかげになって来るわけですね。どうぞ。